今回は映画『ヒミズ』についてご紹介します。
僕は原作の漫画版は大好きですし、何より漫画家の古谷実のファンなので観る前は楽しみだったのですが、これと原作とは全く別物と思ったほうが良いと思います。
初めは原作との違いが多すぎて違和感があったのですが、ラストシーンでは不意に最近あまり感じたことのない熱い感動に包まれました。
あのラストを観れて本当に良かったと思います。いつか自分が辛いときに力になってくれるような、そんなシーンに出会えました。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
映画の情報
監督
園子温
脚本
園子温
原作
古谷実
出演
染谷将太、二階堂ふみ、渡辺哲、光石研、でんでん、窪塚洋介、吉高由里子、他
洋題
Himizu
2011年製作/129分/日本
あらすじ
東日本大震災で被災したある町で、中学生にして貸しボート屋を営む住田祐一(染谷将太)は、平凡で普通な生活を送ることを夢見ていた。
彼の家庭は崩壊していた。母親は蒸発し、たまに帰ってくる父親(光石研)には虐待され、どう考えても普通ではない日々。
彼と同じクラスの茶沢景子(二階堂ふみ)は、そんな彼のただならぬ雰囲気に何かを感じ、ヒーローとして崇め心から愛していた。彼女の家庭も、住田に劣らず輪をかけて荒んでいた。
ある日、住田は父親がらみで暴力団から理不尽な暴力を受け、父親の虐待にも絶えられなくなり、衝動的に父を殺害するという取り返しのつかない事をしてしまう。
彼は普通の人生を送ることを諦め、「悪い奴」を殺すべく、夜の街を徘徊するようになる。
茶沢景子は彼が殺人を起こしたことを知ってもなお救い出そうとする。しかし、茶沢の想いとは裏腹に、住田の人生は深い絶望に落ちていった。
彼の周りを彩る、ちょっと頭のおかしなホームレスたちと、住田を一途に想い続ける少女・茶沢の心配をよそに、彼は何を思いどこへ向かっていくのか。。。
感想・解説
漫画『ヒミズ』は2001年から2003年にヤングマガジンに連載された古谷実の漫画です。天涯孤独の中学生・住田祐一の重苦しい日々と陰鬱なストーリー展開に連載当時、読者に衝撃を与えました。
2012年には鬼才・園子温監督によって映画化され国内外で高い評価を得ました。また、主演を務めた染谷将太、二階堂ふみがヴェネツィア映画際で新人賞をW受賞するという日人初の快挙を遂げ話題になりました。
監督の園子温は非常に映画IQの高い人です。例えばアキ・カウリスマキや小津安二郎監督の映画のように、キャラクターがほとんど動かず、表情もほとんど変わらない、そんな演出があるんなら逆もあるだろう、セオリーをぶち壊してしまえ。と、そんな哲学が感じられる程に本作品も過剰なキャラクターで溢れていました。
過剰にブーストされたキャラクターたち
授業中の教室で普通なめんな、普通最高と、住田(染谷将太)が拳をあげて叫ぶシーンがあるのですが、ここでどう思うかで評価が分かれると思います。
原作にあった尖っていてクールな住田ではなく、ただの元気で変なやつだと自分は思ってしまいました。
授業中に叫ぶ男は普通ではないと思います。茶沢(二階堂ふみ)と雨のなか殴り合うシーンも、普通を願う青年というよりは、どこか無理矢理に動かされた役者、としか見えませんでした。この動かされた役者感は、園子温映画ではよくある光景だと思っています。この件に関しては後程詳しく解説します。
雨が降っていたら濡れたくない。だから雨宿りする。これが普通最高、ということだと思うのですが、雨の中で大騒ぎするような主人公はどうなんだろうと思い、興味を失いかけそうになりました。
監督はインタビューでこんな事を言っています。
東日本大震災以降の日本は、不安定であることを前提にしなければなりません。実感しているのは、僕たちはもはや『ブレードランナー』のようなSFの世界に住んでいるということなんです。1990年代以降の日本を“終わりなき日常”と表現する人たちがいますが、そのような“日常”は終わり、終わりなき”非日常”に突入したんだと思います。
引用:Mastered
重要なキーワードとして”非日常”があるのだと思います。登場人物の過剰な演技も、終わりなき非日常を描くための演出なのでしょうね。
ただ、監督のあまりにも高すぎる映画IQに、ついていくのがやっとな感はあります。このインタビューで納得できる部分も多くありましたが、普通に見ればやはり登場人物達の不自然な言動も多かった気もしました。
園子温監督の演出方法
先程、園子温映画では俳優が無理に動かされた役者に見えてしまう時があると言いましたが、彼の演出は昔からある、相米信二監督が行っていた演出によるものです。
相米監督は役者の少年少女に演技の説明をせず役者自身に芝居を考えさせ、相米が納得するまで何回でも繰り返し演じさせるという手法です。
その厳しさに撮影現場で多くの女優が泣いたらしいですが、そんな彼女たちが完成した映画を見ると相米とまた仕事したいと言ったとの事です。
相米映画の原点は決まりきった芝居の先にある、監督も役者本人も予想不可能な何かを求める姿勢で、これを園子温監督も踏襲しているわけです。
主演の二人はインタビューでこの演出を楽しいと言ってみせます。
こう演技しとけばいいんだろうというクセのようなものを監督に徹底的にシゴかれ取り除かれたらしいのですが、それを楽しかったと言ってのけるタフさ。
監督の徹底的な厳しさによる非日常に加え、それを楽しかったと言う役者二人による非日常、そのズレこそこの映画に不思議な違和感、パワーを与えているんだと思います。
それが苦手な人もいるでしょうし、はまる人にははまるのかと思いました。
ちなみに映画『愛のむきだし』で主演を演じた満島ひかりは監督に怒鳴られっぱなしで険悪な仲になってたそうで、もう園子温監督とは関わり合いたくもないんだろうな~と勝手に想像してます。
染谷将太と二階堂ふみがいかに化け物かもこのエピソードでわかるかと思います。
震災はなぜ映画に描かれたのか
震災と映画をからめるアイディアも監督は最後まで迷ったと言っています。日本で現実の事件を描くのはセンセーショナルとしてしか見られない危険性があったからだとの事です。
映画撮影中に震災があってそのまま見過ごすわけにもいかず、かといって撮影を中断するよりは脚本を大きく変え、震災をあえて取り入れる事で映画製作事態が停滞することを逃れたそうです。
周りに被災したスタッフがいて、映画の被災地シーンはそのスタッフの家の近辺や実家だそうです。彼に導かれて、被災地の方に承諾を得て少人数で撮影したとの事で、記録として震災の映像を残すほうを選び取りました。
最後までこの選択が良かったのかは誰にもわからないのだと思いますが、震災に巻き込まれてしまったので脚本も全て変え、映像に残そうとする気骨のある決断は日本人にはなかなかない勇気だと思います。
ラストシーンと”希望に負けた”
原作と本作品との大きな違いはやはりラストシーンが180度書き変わっているところです。震災を境に全く違ってしまったラストで「がんばれ」、「あなたはかけがえのない花よ」こんなストレートな台詞が出てくるところにも驚きました。監督はインタビューでこう言っています。
今回の映画の中で「がんばれ」という言葉が出てきますが、これまでは無責任だし誰でも言える、好ましくない言葉だと思っていました。でも、今の過酷な現実を前にして希望を持たざるを得なくなったし、絶望だけではやっていけないと思うようになったんです。僕は「希望に負けた」と説明しているんですが、この映画の中にある「がんばれ」には、「希望だ!」ではなく、自分に言い聞かせるように「仕方ない。希望を持つか」というやけっぱちな思いを込めているんです。
引用:CINRA.NET
「希望に負けた」なんて、凄いフレーズだと思いました。この一言だけでも只者じゃない才能だとビンビンに伝わってきます。
「がんばれ」と二人は突き動かされたように、泣きながら叫び続けるラストシーン、最後は住田が「住田がんばれ」と普通ならありえない台詞をやけっぱちに叫び、まるで全国にいる住田と同じような人に向けられたかのように、がんばれが響き渡っていくところに感動を覚えました。
夜野、神楽坂恵、ろうそく、でんでんについて
登場人物の夜野が原作では中学生なのに、本作ではホームレスの爺さん(渡辺哲)に置き換えられているところも大きな違いでした。
住田の数少ない友達が急に爺さんになっていることに違和感を覚えてしまいましたが、映画にするにあたって、二人を中心に描こうとしているのに、さらにもう一人悩みを抱えた中学生は、2時間の映画にはいらないと思ったんです。と監督は言います。
確かに二人を中心に描くこと、時間は2時間しかないこと、それを加味したらしょうがないのかもしれません。
ですが、原作ではいなかった住田の家の周りに住み着いたホームレスのカップル二人、信じられなくセクシーな神楽坂恵と謎の男も本当にいらんとは思ってしまいましたね。神楽坂恵は園子温の奥さんです。セクシーで魅力的なのですが、なんらかの天下りを感じてしまうほど園子温映画に出すぎていて少し興ざめしてしまいました。
園子温映画に出すぎていると言えば、必ずといっていいのがろうそくの存在です。ろうそくの中での二階堂ふみの演技、その声の出し方は必見でした。
立派な大人になる、時間はたっぷりある。と住田を諭し、なんの根拠もないけど優しい声が全てを包み込んでいて、この静かなシーンはここにきて、前半のお祭り騒ぎがフリになって染み入るようでした。
そして、でんでん演じるヤクザのボスも必見です。この人の出ている映画を見とけばほとんど損はしないと思います。
殺人シーンと茶沢の家庭について
住田が父(光石研)と喧嘩して殺害してしまうシーンでは二人の会話が成立してしまっている事に違和感を覚えました。
住田は父を殺すほどに憎しんでいるはずが、テレビを二人で見ながら結構会話のキャッチボールができていましたし、そもそも父親からの過剰な暴力も、ある意味愛情の裏返しのスキンシップの一貫と捉える事も出来、二人には近い将来、仲よくやっていける未来もあるのでは?と思わせるところは良くなかったと思います。
そもそも、殺しの種類がわかりやすい虐待による正当防衛になっているところがあり、原作の無関心な父親への、衝動的な殺人のほうが絶望の深さはあったかと思いました。
殺す直前に住田と父親は向かい合い、父は息子の顔を何度も触ります。非日常や、悪意を出しているというよりも、父も愛も持ってるのかな?と思わせてしまい、長回しでの泥臭い殺害シーンは名シーンだったのでもったいないと思います。
茶沢の家庭が住田の家庭よりも壊れているところも原作との大きな違いでした。
住田よりも茶沢のほうが酷い家庭なのはどう考えてもやりすぎだと思いましたが、茶沢が住田によって救われてる感じは圧倒的に映画のほうが出ているのだと思います。
原作にいた太った悪魔が姿を消した変わりに、茶沢の家庭は壊れ、住田が顔中にペイントして街中で絶叫しまくるシーンを入れたりなんかして、園監督は演出のなかでも一番過剰でリアルなほうを描きたいのだと思いました。
普通の演出で良かったのに。。。と思いながらも、この、良く言えばカルト映画のような質感は唯一無二なのだと思います。
最後に
園子温が好きかと問われたらちょっと言葉に詰まってしまいますが、この映画にしかない作家性はやはりありました。
本作品を見て、その違和感に怒りを覚えたり、ラストシーンの原作との違いに思わず何かを語りたくなったり、どこか観客をただでは帰させないような気迫に満ちていると思いました。
それ自体がこの映画の中で叫ばれる”がんばれ”と言うメッセージと被るのではないかと思ったり思わなかったりなんかしましたね。
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