映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』ネタバレ感想・解説!雨と都会が好きな人の為の映画

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今回は映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』をご紹介します。Netflixで配信された本作。

監督のウディ・アレンはずっと雨の日のニューヨークを描きたかったようで、今回実現して良かったです。なぜ雨の日のニューヨークを描いたのか。今回視聴して少しわかった気がしました。

ウディ・アレンに何か異変が起きているようですが、とにかく一旦落ち着いて本作品についてチェックしていきましょう。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の情報

監督
ウディ・アレン

脚本
ウディ・アレン

出演
ティモシー・シャラメエル・ファニングセレーナ・ゴメスジュード・ロウディエゴ・ルナ、他

原題
A Rainy Day in New York

2019年制作/92分/アメリカ

映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』のあらすじ

大学生のカップルのギャッツビーティモシー・シャラメ)とアシュレーエル・ファニング) 。彼はニューヨーク育ち彼女はアリゾナと、都会育ちと田舎育ちの対照的な性格だ。

アシュレーが有名映画監督ポラードのインタビューを取り付けた。場所はニューヨーク。ギャッツビーは地元であるためアシュレーをエスコートすることに。しかしアシュレーポラードに口説かれ、せっかくのギャッツビーとのランチをすっぽかす。

不貞腐れマンハッタンへ散歩に出たギャッツビーは短編映画を撮影中の同級生とかつての恋人の妹チャンセレーナ・ゴメス)と遭遇する。短編映画出演に巻き込まれ、彼女とキスをする。それと共に突然雨が降りだし、ニューヨークでの忘れられない1日が始まる予感が物語を作っていく。

曇りの男ギャツビーと晴れの女アシュレーはなかなか会えずにすれ違っていき、不意に出会った雨の女チャンと行動していくうちにギャッツビーの心模様も変化していく。。。

映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』の感想・解説

この映画の中の二人は1日の間に何度もいろんな人と出会い、別れ、また出会います。出会いもさりげなく、別れもさりげない。瞬間で、選び選ばれる、この映画的感覚がオシャレでした。

まるでレコードの曲が次々に変わるように、物語とはまた別の次元の映画的心地よさに溢れていましたね。

そしてこの一見散漫な物語をまとめあげているのは、やはりニューヨークの景色と雨とピアノの音なのだと思います。

雨に合うピアノ・ジャズ

オープニングタイトルが表れ、そこでかかる曲はビング・クロスビーのレイン・ソング「I Got Lucky in the Rain」。ステレオタイプの手法だけど、これこそが最高の映画の始まり方だと言わんばかりに音楽が鳴り、映画に魔法がかけられるかのようでした。

その後エロル・ガーナーの「Misty」をはじめ、名曲の数々が物語を彩り、その軽やかにスウィングするピアノと雨との親和性に酔いしれ、ギャッツビーが歌うピアノ曲は「Everything Happens To Me」。1940年にフランク・シナトラが初めて録音し、その後、ビル・エヴァンスチェット・ベイカーなど様々なシンガーが歌ってきたスタンダード・ナンバーです。

とにかく雨と合いすぎなピアノの響きに酔いしれる事のできる映画だと思います。

舞台がニューヨークである意味

ギャッツビーがマンハッタンを散歩中に、こんな事を言っていました。

「ニューヨークは他のどの街とも違う。不安と敵対心と被害妄想を掻き立てる。世界中どこにもない、痛快な街だ」

引用:映画『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

筆者はここでアメリカの小説家ポール・オースターの小説『ムーンパレス』からのこんな言葉を思い出しました。

街を歩くニューヨーカーの瞳には一種独特の膜がかかっている。それは他人に対する無関心の、自然な──おそらくは必要な──一形態なのだ。
(中略)何を着ていてもニューヨークでは誰も何とも思わない。だがその一方で、服の中身がどうふるまうかについては実にやかましい。

引用:小説『ムーンパレス』

ニューヨークにある多様性の、その危険な部分も含め全てが愛おしいというような事なのでしょうか。ニューヨークはとにかく世界でも類を見ない変わった街なんだという思いが伝わってきます。

ギャッツビーが苦手だった母親から暗く悲しい過去の打ち明け話をされるシーンでは、彼ははじめて母を見直した、親近感が沸いたと言っていました。そこに驚きました。

ギャッツビーにとってのふさわしい暮らしはニューヨークの高級感と不埒さを同時に生きることだと思います。母親が隠していた不埒さと元々持っていた溢れ出る高級感こそ、彼の愛するニューヨークの世界観とあまり変わらないと気づいたのだと思います。

このシーンではクールな様に見えるニューヨーカーの気概、底力のようなものを感じました。超高級なものの下にこういうタフさがあるのだと。それに屈服するかのように受け入れた彼と、母親とのこれからも明るいものになっていく予感があって、晴れ晴れしい気持ちになりました。

街の風景

そんなニューヨークの風景が沢山見れるのもこの映画の魅力の一つです。

ギャッツビーの実家は、マンハッタンの高級住宅がひしめくアッパー・イーストサイドにあり、そこを中心にした景色が堪能できます。

ギャッツビーの友人の短編映画のロケ地であるミネッタストリート、ギャッツビーアシュレーが泊まったセントラルパークの見えるホテル「ピエール」やギャッツビーがピアノを弾いたホテルの「カーライル」、「プラザ・アテネ」など、アッパー・イーストサイドの高級ホテルなどが見れます。

チャンとデートした近代美術館(MOMA)や、セントラルパークの風物詩である馬車観光や、ギャッツビーの兄が住んでいるグリニッジ・ヴィレッジも舞台となります。

グリニッジ・ヴィレッジは1960年代のカウンターカルチャームーブメント発祥の地として知られる場所ですが、現在の使われ方や内装を見るだけでリッチな気分に浸れました。

映画『タクシードライバー』『ジョーカー』が暮らしてる(あくまで設定ですが・・・)サウスブロンクスとは全く違う上流のニューヨーク、マンハッタンがこれでもかと堪能できました。コロナ過で、おうちでの観光気分に浸りたいときにはうってつけの映像体験ではないでしょうか。

ベタなラブコメとしての要素

物語の核はやはりなんといってもベタなラブコメ要素です。とにかくベタだからこそ安心感があるし、映像に集中できる良さはあると思います。

曇りの男ギャッツビーと晴れの女アシュレー、雨の女チャンのそれぞれがそれぞれとてつもない演技力で、その上ウディの視点は誰に対しても優しく降り注いでいるようでした。

ギャッツビーチャンとの雨の中のキスから、何かの歯車が完全に合い出していて、雨は二人の夢想家を優しく彩るものとして描かれているようでした。

一方晴れの女アシュレーはいかにも田舎の女という性格で、ラストの馬車のシーンでも「せっかく乗ったのに、曇天なんて」と曇り空にロマンを感じない、「晴れのニューヨーク」しか好きになれないピュアな若い女子そのものでした。

有名な役者と出会い、彼の部屋へ行き、彼の誘いを断るべきだと思いつつ、セックスすれば孫の代まで自慢できるという。本当にこんな女いそうだなというような軽い女を演じきっていて、自分ですら彼女と同じ立場ならそうするかもと思えるほどの凄い演技力を見せつけられました。

あまりにも軽い女すぎて途中頭にくるほどでしたが、それでも優しいウディの目線は彼女にも注がれていて、晴れの女アシュレーにとっては大雨は大雨でしかなく、軽薄で普通な彼女にぴったりの主戦場は他にもあるのだと、優しいカメラは語っているようにも思えました。

ずっと天気雨が降っているのですが、雨の中でも晴れ間はあって、ギャッツビーアシュレーのどちらの味方もしているようで、そこも良かったです。

ウディ・アレンにとっての映画とは

中盤でギャッツビーチャンにギャンブラーかピアノ弾きになれと言われますが、彼は、これは映画じゃない現実だから無理と答えるシーンがあります。そこでチャンはこう切り返しました。

「現実は夢を諦めた人の世界よ。」

思えばウディ・アレンはずっと夢のような映画を作ってきたのかもしれません。最後の1日は晴れから始まり雨が振ってきて、そして彼にはもう傘も必要じゃなくなっていて。。。と見事な展開でした。

静かな、雨の音とピアノの音。最後は、優しいピアノの音だけになり。また未来でも普通で特別な1日が始まっていくんだという予感があって映画は幕を閉じます。

映画はもちろん現実なんかじゃない。これは少し悲しく儚い2時間ばかりの美しい夢なんだと、アレンに教えられたようで胸はざわつきました。

最後に

ウディ・アレンに異変が起きているようで、幼児虐待容疑により、#MeToo問題に巻き込まれているようです。

本サイトでは詳しくは触れませんが、火の無いところに煙は立たず、彼への不信感も自分は生まれてしまいましたね。こうなってくると彼の顔がどうしても変態に見えてくるから不思議です。

作品の良さと人間性とは別だと言える程に自分は強くありません。ただただ翻弄されビックリするだけではありますが、この映画は本当に素晴らしい、これも事実でした。

彼の事や、作品の事、もう少し待ってみてまた判断したいかな?と思いますね。今は。 映画は最高に面白いですよ!

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