今回は映画『死にたいほどの夜』を紹介します。
アメリカの小説家ジャック・ケルアックによる、ビート文学の金字塔的小説 『オン・ザ・ロード(邦題 路上)』の主人公のモデルとなった、ニール・キャサディの若い頃を描いた本作品。
アメリカの最初のカウンターカルチャーであるビート・ジェネレーションの伝説的人物であるニール・キャサディがモデルとあり、どこか発掘良品的な知る人ぞ知る名作、を期待して鑑賞したのですが、まあ期待外れだったな~って感じです。
ただ、軽快なジャズとインディペンデントならではのオシャレなカットと詩的な台詞に心踊る事はありました。
あとはキアヌ・リーブスが珍しく助演で出ています。『スピード2』のオファーを蹴って出演した。なんて、メディアの考えそうな曖昧なフレーズが付いてたりなんかして。泥臭いキアヌがなんだかんだ一番の見所な気がしますね。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
映画『死にたいほどの夜』の情報
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監督
スティーヴン・ケイ
脚本
スティーヴン・ケイ
出演
トーマス・ジェーン(平田 広明)、キアヌ・リーブス(堀内 賢雄)、エイドリアン・ブロディ(藤原 啓治)、クレア・フォーラニ(岡本 麻弥)、他
原題
The Last Time I Committed Suicide
1997年/92分/アメリカ
映画『死にたいほどの夜』のあらすじ
もうすぐ二十歳のニール・キャサディ(トーマス・ジェーン)は夜勤でタイヤ工場に勤めていた。ニューヨークの新進作家ジャック・ケルアックと手紙のやり取りをしているが、彼自身はいずれ小さな家を持ち、妻子と暮らす平凡な未来を夢見ている。
しかし現実には、日勤の仕事を得ることすら出来ず、悪友のハリー(キアヌ・リーブス)とビリヤードに興じたり、車を盗んで女の子たちと疾走するのがニールの日常だった。
彼の一見怠惰な日々に終わりはあるのか。小説『路上』の主人公のモデルとなった実在の人物ニール・キャサディの路上”前”の物語が瑞々しく描かれる。
映画『死にたいほどの夜』の感想・解説
まずビート・ジェネレーションというものの本質を掴んでおこうと思うのですが、調べてみると、50年代初頭のアメリカで生まれた初めての思想運動、とりわけ若者が中心のカウンターよりの思想みたいです。
ビート文学の代表的作品として、ウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』、アレン・ギンズバーグによる詩集『吠える』、そしてジャック・ケルアックによる『路上』、この三つが挙げられます。
ビート文学の主張の根本は、文明社会を否定し、開拓時代のフロンティアスピリッツやホーボー(季節労働者)の放浪生活を見直し、ネイキッドな魂を解放しようというもの。らしいです!
モダンジャズがビートジェネレーションの構成要素らしく、それはヒッピーやロックンロールがまだ誕生する前だということからもわかるように、まだまだ未完成な文化だったのだと思いますね。
その未完成さゆえ、泥臭さもエモーショナルさもまだまだ足りてない、それがビートジェネレーションなのかな?と、そんな印象を受けました。”ネイキッドな魂”という点ではそれはそれでいいのかも知れませんが。
『路上』前夜のニール・キャサディ
この映画で描かれているニール・キャサディは、非常に親しみやすくどこにでもいる不良のようでした。盗みを500回もやったと言っていたり、刑務所に入ったことがあるなど、勿論、突出して荒くれ者な不良ではあるのですが。
主人公を演じたのは映画『ミスト』で家族全員を失う人。ニール・キャサディの実物の写真と比べてみるとそっくりだったので驚きました。
成功や失敗の数が男を物語る。これはあるスーパーマンの生き様だと、映画の冒頭に字幕が出ますが、成功や失敗も大して描かれてはいなく、スーパーマンもどこにも描かれてはいない地味な印象を受けました。
ただ、映画を最後まで見ると、ニールは誰が見ても失敗したダメ男と映るように作られてるとは思ったので、夢を手に入れられなくて可哀想。みたいなのが素直に感じる感想だと思うのですが、どこか彼には世間的な肩書きや地位も全く関係ないようにも描かれていました。
「男のすることには必ず理由ある」と言いながらどんどんダメになっていく男。これが伝説とされた一人の若者の正体な気がしますが、ダメでも別にいいさ。という若さゆえの無鉄砲なメッセージにも取れ、こんな風に涼しい顔をして生きていく生き方は確かにスーパーマンと言えなくもないなと思いましたね。
キャサディの仕事と夢と愛
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小説家のジャック・ケルアックとの交流もほぼない20歳の頃がラフに描かれている為、物語に求心力はありません
彼女が自殺未遂を起こし病床に見舞いに来たニールがすぐ帰ろうとします、看護婦は、もっとそばにいてあげたら?と言います。そこでニールは出来ませんと答えていました。
なぜ死のうとしたのか女に聞かなかった。
引用:映画『死にたいほどの夜』
世の中はあるがままだし、他人は他人だから。
そう言って、病院には行かなくなってしまいます。達観してるようでもあるし、他人には全く責任はとらないようでもある。そういった若さが描かれているようでした。
愛する妻を持ち、白いバルコニーのある家を持つという抽象的な夢を持ち、仕事の面接も友達との飲み会の為すぐに捨ててしまうような若すぎる生き様は、どこにでもいる大学生の怠惰を集めたようで、ある意味甘美で魅力的ではあります。
薄曇りの冬空の下のキアヌ・リーブスとエイドリアン・ブロディとのかなり豪華なメンツでのラグビーのシーンや、オールでのビリヤードから朝方にオープンカーを盗み、薄暗い路上をナンパした女二人を乗せて走るシーンはとりわけ印象的でした。
オープンカーのシーンは決まりすぎなぐらい映画的で、このシーンのイメージが頭から離れないのか?伝説になったのか?とにかくこのシーンこそ『路上』そのものなのかなと思いましたね。凄いことをしてるようで実質どこにも行くあてもないけだるさ。これがなかなか切ないです。
深夜の工場という仕事、その後紹介されたタクシードライバーという、彼の職へのこだわりの無さ、夢は愛する妻と白いバルコニーのある家に住むという十代のギャルのような薄さ。元カノ二人を天秤にかけ結局どちらも選ばないような無関心さ。
こんな風に全く美化されていない20歳のニール・キャサディと、ハッキリした行動原理(快楽に流されていく)とオシャレなカットとモダンジャズ。この映画をいい意味で垂れ流しで見てみると心地よいかもしれませんね。
最後に
最後のシーンで薄暗い街を一人で走るニールは語ります。
僕の自殺的な行動はこれが最後じゃない、愛は移ろう、人生は続く。
引用:映画『死にたいほどの夜』
その真理のようなハッキリとした台詞に何を感じるのか。そしてやっとケルアックに本格的に手紙を書く場面が差し込まれます。ここは未来への大事なシーンだと思うのですがあえてモノクロになっていて雰囲気がありました。
このオシャレさをどの判断基準で捉えるかでこの映画の価値は決まりそうではありますね。
自分の感想は、愛は移ろう、とか真実めいた事を言うな!なんとかしろ。人生は続く?なら継続した何かをやらないと!落ち着けよ!と、まさに30代的感想になってしまってましたね。
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